車竿は大正時代に中山賢士、本間祐介氏等により考え出された。
酒田の南突堤の鱸が沢山釣れた年があった。鱸を釣るのに、竿が長ければ沢山釣れるというので、庄内竿を長くする為に青竹、旗竿等を継ぎ足す者が現れる始末 で玄人(ベテラン)の中に素人(初心者)が入ると非常に危険な事もあった。最上川側に何十人もの行列を作っての流し釣であるから、玄人の人たちは、危なく てまともに竿を振ることも出来ずにいた。そこで遠くに飛ばす工夫がないかと考え出されたのが酒田の車竿である。其れは、昭和40年代前半まで盛んに作られ 使用されたが、丈夫なグラスの投げ竿の普及で途絶えた。
車竿とは、苦竹の太くズングリむっくりした竹に外ガイドを付け、リールは北海道のイト ウを釣るために作られていた横転リールを使った。上手に投げると軽く100mは飛びウキを付けて、試釣に及んだ所抜群の成績を収めた。イトウを釣る為の リールで中々手に入りにくかったが、それから酒田の鱸釣は車竿に変わって行った。
その後、本間祐介氏が東京の牛込の薬屋で中西(「釣の友」の主筆)という人物から酒田で使用している車竿の事を聞かれ使い方を教え竿とリール、ウキ(酒田浮木=中山賢治考案)など一式を送った所、翌月号の「釣の友」に車リールの紙上コーチとして実釣の成果を 紹介されていたという。「釣の友」にリールを使うことの是非を問うた所賛否両論(邪道といい反対する者、スポーツフィッシングとして賛成する者)あり其れ が、半年も続いた。その間ちゃっかりと中西氏は外国製のリールを小型化して「中西式リール」とし、更に「酒田浮木」に多少手を加えて「中西式リール浮木」 といって東京の三越などで販売していたという。
この逸話により、関東より早い時期に酒田では遠投の釣が普及していた事が分って面白い。
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